アフガニスタン
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居候させてもらっている友人と彼の友達数人と一緒にマザーリシャリーフの中心地にあるレストランで食事をした時、彼らの中で一番稼ぎの良い友人が全員分の勘定をしているのを見て、「割り勘はしないの?」と、帰りの車の中で僕と友人二人きりになったときに尋ねると、「家族や友達のためなら持ち金すべて出すよ。それがアフガニスタンだ。」彼はそう答えた。この言葉はいかにアフガニスタンで家族や友人の繋がりが大切にされているのかを理解するのに十分だった。仕事を見つけるのが難しく、タリバン政権が2001年に崩壊して以降、治安は最近の数年間で最悪レベルになっていたから支え合って生きていくことが他のどの国より求められているのだろうと僕は思った。
僕が初めてアフガニスタンに行ったのは2015年、大学を休学して中国からポーランドまで8ヶ月間かけてほとんど陸路で旅をした翌年だった。この旅では写真家になりたいという思いの欠片もなく、小さい頃からいつか行きたいと思っていたシルクロード沿いの国々をバックパッカーとして巡っただけで、カメラも1万円弱のコンパクトカメラだった。2015年のアフガニスタン渡航では買ったばかりのCanonの一眼レフカメラを持っていったのだが、使い方も良く分かっておらず、今振り返ると良い写真と思えるものが一枚もない。この時、ファルシャッドというAFP通信の同年代のフォトジャーナリストの家に20日ほど居候させてもらった。彼の兄のアニールもロイター通信のフォトジャーナリストで、2人にカメラの使い方から写真のキャプションの書き方、フォトジャーナリストとしての行動の仕方まで、実地で教わった。何も分からずによくアフガニスタンに行ったな、と思っている。そして何も知らない僕にカメラの使い方から、現地の風習や行動の仕方まで、世話をしてもらった二人には特に感謝している。
2017年までに3回渡航した僕の体内には確かに生身の体験としての記憶が凝縮されて、若き日を懐かしむ心のように光輝いている。ある時、カブールの路上を友人たちと歩いていると、楽しそうに車を後ろから追いかけている若者グループを見つけた。「彼らは何をしているの?」と僕は尋ねた。「燃費が悪くなるから大人数で乗らないようにしているのさ。」と友人は笑いながら答えた。まさかあの車を強奪しようとしているのかと考えが過ぎった僕はあまりの素朴な答えに拍子抜けしてしまった、と同時に遅々として改善しない治安や経済状況の中での彼らの生き方の一端を垣間見てこの国のことをもっと知りたいと思うようになった。
アフガニスタンは僕にとって鏡のような存在なのかもしれないと思うときはある。行く度に自分の弱さを目の前に叩きつけられた。3回目の渡航から帰国しようと最後の数日間をカブール中心部のホテルで過ごしていたとき、部屋に数百ドルになる紙幣を机の上に置いたまま外出したことがあった。数時間後ホテルの部屋に戻るとちょうど清掃係の親子であろう母親と女の子が僕の部屋を清掃していた。大量の紙幣を出したままにしていたと思い出した僕は、彼女たちを見た瞬間に「もういいから僕の部屋から出ていってくれ。」と強い口調で追い出してしまった。大量の紙幣は元通りにそのまま置いてあった。その時の彼女たちの戸惑いの目つきと申し訳なさそうに去っていく後ろ姿は今でも忘れることはできない。自分がいかに臆病で卑怯で意思が弱いか、それでいて大胆で行動的か。アフガニスタンは僕に自分は何者なのかを突きつけてくれた。